とある方のインタビュー記事を読んで、今まで言語化出来ていなかったものが、明確になった。というのも、持っている人と、持っていない人とでは、一体何が違うのか?という点である。

持っている、というのは、この表現自体色んな意味合いで使われるが、今回は「表現者として」というのが頭に付く。で、これはつまりどういうことかというと、僕が腑に落ちた言語化された表現で表すと、「人は必ず死ぬのだということを強烈に感じ取れる人」のことを指す。

表現はやはり生を切り取ったものであるし、同時に死を感じさせるものである。どちらが主体であっても、どちらかが必ず浮かび上がる。まあそれ自体が主題となっている場合は、表現としてはズルい、あるいは幼い、と言われることもあるかもしれない。しかし、感じとれる人は主題が全く別のところにあっても表現が血のように鮮やかである。

どっかの役者のオーディションで、レストランのメニューをできるだけ感情たっぷりに読んでくださいというのがあって、うまい人だと審査員を泣かせる人もいたという。「三種のきのこと季節の野菜サラダ」「あん肝のテリーヌ」「エスカルゴのブルギニオンバター」「子羊の香草パン粉焼き」「鴨のコンフィ〜オレンジソース」料理というものは、直に生き物を食べるわけで、こんなに生き死にを直接的に突きつけて来るものもなかなかないはずなのに、日々それが当たり前になっていることで、通常は感傷的にはならない。しかしもしかしたらもっと詳細に、「十勝平野の放牧豚とキタアカリの肉じゃが」とか切なげに言われたら、広々とした大地を駆け巡っていた豚の姿を想像し、黙祷を捧げるとともに、ありがたみを一口一口噛み締めざるを得ないだろう。そうだろう?

または、美空ひばりの「愛燦燦」の「人はかわいい かわいいものですね」である。俯瞰の視点である。人生は全て喜劇である、という言葉もあったよね。

人間だもの、という言葉もそうだが、つまりは「諦観」であるとも言えるのかもしれない。言えないかもしれない。まあしかしここでは思い切って言ってみよう。

 

何日か前まで生きていた人間が死んでしまう。SNSでなんとなく色んな人の動向が読み取れて、なんとなくのつながりを感じとれる。そして色んな理由で当人がなくなった後も消されることがなく、生前の記録としてネット上に残されたりする。その知らせは親しかった人間だったり、家族だったりで、本人のアカウントから発せられる。有料ゴミ袋の最後の一枚を引き抜いた瞬間、瞬時にさっきまで入っていたビニール袋がゴミになってしまうような艶やかさで。

そんなことを思っていると、今SNS上に無数にいる人間たちの記録は、百年後、全て墓場となっていることが想像されてしまう。多分、百年後もし、ツイッターやFacebook、インスタグラムが続いていて、新規で登録なんてした日には、アカウントの過半数は死者なんじゃないだろうか。死者と思っていたやつから「いいね」が届いたりしてどっひゃー!みたいなね!

「千年経てばみんな死ぬ みんな死ぬ〜」

中村佳穂「どこまで」

なのである。

千年先はインターネットも、今よりもっと進んで、何か違う形態になっているかもしれない。どうなんだろう、違う形であっても残っているんだとしたら、ネット上は墓場だらけだ。なんなら、人類自体、残っているかどうか、怪しくない?

 

だけどやっぱり想像するよね。

千年後でも、どこかでレコードに針を落として音楽を聴く人類の姿を。

そして彼女の歌を聴いた彼、彼女は思うよね。

「この歌は、千年後を生きている、僕らのために届けられた歌だ」ってね。

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